空気人形とゆりかもめ

by 彩(グラフィックデザイナー/moonbow cinema)

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2015年12月20日、moonbow cinema 第二回目の上映会で、とても久しぶりにゆりかもめに乗った。

moonbow cinemaで見たインターステラーは、日本公開初日に見たので2014年の11月22日以来、まだ一年ほどしか経っていない。

けれどその間に自分の息子が大きくなって、彼が言葉や会話や感情表現を身に付けるのを見ていたから、親心、という自分の気持ちが大きく変わった。

息子は公開当時まだ赤ん坊だったけれど、1年の間に言語や仲の良い友達を獲得して、私には理解できない趣味も見つけ、飛躍的に世界を広げている。自身の体も見える世界も大きくしていく子供の姿を見ていると、彼もまた未来人で、いつか遠い場所へ好きな勉強をしにいったりする可能性に、現実味が出てきたのだ。

今はまだ親にそばにいてほしい、という彼の気持ちがストレートに伝えられることが多くて、毎日毎日近くにいる時間が重ねられてきたから、親と子の別れ難さ、についても体感が変わったように思う。だからインターステラーのあの父娘の関係が、前に見ていた時と違う気持ちで見えてくる。

インターステラーという映画と一緒に、初めて映画館で見たあの日の自分がそのまま保存されていて、スクリーンで見返すと今の自分と比較することができる。

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上映会が終わって、残り5分ほどで暗くなりきってしまう海の夕日を日本科学未来館から眺めて、片付けをして、暗い空き地と広い空の目立つ道を通って駅に向かう。お台場の観覧車やヴィーナスフォートがオープンしたのが1999年、それから全然建物は増えなくて、ぽつんぽつんと高いビルがあるのに余白ばかりが目立つ土地がお台場だ。

そんな場所を通り抜けるゆりかもめは、お台場周辺からレインボーブリッジを抜けてみっしりと高いビルが建つ東京に入っていく。隙間なく光るビル、青白い光からオレンジ色、暗いカーテンがバラバラと空まで伸びるタワーマンション。

都内で育って夜景は見慣れているのに、流行りの過ぎた暗いお台場からレインボーブリッジの下を抜けてきらきらと賑わう品川や銀座、東京タワーの夜景が明るく近づいてくるのを見ると、東京という街の持つパワーやきらめきや大きさに圧倒されて、心細い気持ちになった。

あんなに大きなきらきらした街で、ずっと楽しく暮らしていくことができるんだろうか、というような小さな不安。

東京のきらめきの儚さを、お台場の空き地の暗さに見てしまった後だからだ。

たまに見かける、「東京という街はあれを買えこれをやれとキラキラしていて自分を失う」というような文章は、こういう気持ちなのかもしれないと思った。溶け込まないとそこにいられない、けれど光に溶け込み続けるだけでも疲れてしまうようなパワー。

 

ゆりかもめに乗ったのが何年ぶりかは思い出せなかった。Zepp TOKYOと一緒にヴィーナスフォートの近くに行くことはあっても、ゆりかもめは使っていない。小さい車両や、隔絶された路線の感じが、逃げ場がないような気がして窮屈で、少し避けていたような気がする。

だけど車窓からの景色に妙に馴染みがあったのは、映画の「空気人形」(是枝裕和監督/2009年9月26日公開)を映画館で見て、DVDを何十回も見ているからだ。

 

是枝裕和監督の映画を映画館で見たのは2004年公開の「誰も知らない」が初めてだった。シネスイッチかシネマシャンテか、銀座の映画館で。「誰も知らない」のポスターは川内倫子さん撮影の柳楽君の写真が印象的で、映画自体もやわらかな光と色の記憶が残っている。つらい映画だったので映画館で見て以来見ていないのに、登場人物の子供達が公園で遊びながら見た空や景色を自分が体験した夏の日の記憶のように覚えている。もう10年も前の映画だ。

大きなスクリーンで見た良い映画の記憶は、10年も色褪せないということを、年齢を重ねた最近知った。

 

「空気人形」を見に行った記憶も鮮明だ。性的なテーマの映画であることを知っていたので、一人で公開日のシネマライズの席を取ったのだった。森本千絵さんがアートディレクションをした広告は渋谷のマークシティの大きな柱や色々な場所のポスターになっていて、まるでとても可愛いラブストーリーのような見た目だった。

けれど映画にはダッチワイフとのセックスシーンや、アダルトグッズが出てくる。とても美しい映画で、可愛い女の子が主人公だけれども、性愛というものがただ美しく可愛らしいだけではないことを描いた映画だったのだ。

けれどもそんな汚らしさやエグさがある世界の中で、主人公の人形は“心”を獲得して世界の美しさと輝きを見出し、まるで海岸で美しい貝の欠片を拾い歩くように世界の宝物を見つけていく。

映画を観終わって、一人で渋谷の街に出た自分も、まるで彼女の瞳をかりたようにきらめいた世界を見つめて、空気が入った風船のようにふわふわと街を歩き出した。

 

映画の中で“空気人形”の彼女は、好意を寄せる男性に「知りたいことがあれば教えるよ」と声をかけてもらう。それは彼女がまだ知らない映画や街の知識のことを指していたけれど、一人になった彼女は「あなたのことを、もっと」とつぶやく。映画を見てからずっと、誰かにまた会いたくなるたびに、私も彼女のように「あなたのことを、もっと」知りたい、と心の中でつぶやく。

彼女が仲間に物をプレゼントするシーンを、電車で人に席を譲ったりするたびに思い返す。

ゴミのようなガラス瓶を見るたびに、ガラス瓶を拾い上げて光に透かしている彼女の姿を思い出す。

 

2009年に映画を見て以来、彼女と一緒に生きてきたのだと、家で一人でDVDを見ながら気がつく。

ゆりかもめの夜景や、少し寂しいお台場の景色を、彼女の記憶と一緒に見ている。

 

今年、ペ・ドゥナの新作映画をとても気に入って、一本の映画を劇場に4回見に行って、Blu-rayを何十回か見た。その映画に出会えたのは、空気人形の彼女のことを数年間ずっと愛していたからだろう。

そんなにも好きな映画に出会えただけで、2015年はなんだか良い年だったような気がしてしまう。

 

ゆりかもめからの景色は空気人形の撮影時とまた少し変わっていたと思う。彼らの住んでいた小さな古い一角がまだあるかどうか分からない。

東京という街の変化を、映画と自分の体験の交差で感じることができる。

行ったことのない街の映画のその場所に、何年か後の自分が行って、あの映画と同じ光の色だと気がつくかもしれない。

 

映画を見ると、その映画を見たその時の自分が、映画と一緒に保存される気がする。そして、何年後に見直しても、映画の方は変わらない。だから、その数年の時空を超えたまた違う体験ができたりする。

映画との出会いは、その2時間だけで終わらない。

新しい映画を見に行くことで、何年も一緒に居られる新しいなにかの芽を見つけるのかもしれない。

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note

※空気人形の撮影監督は李 屏賓(リー・ピンビン)、ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」、行定勲監督の「春の雪」、トラン・アン・ユン監督の「ノルウェーの森」でも撮影監督を務めています。とても美しい映画たちですね。その他たくさんの映画を撮っていますが、最新作のホウ・シャオシェン監督「黒衣の刺客」でも、雄大な自然や静謐な室内、人物の姿を映し、美しさが一層深いフィルムになっていました。

花様年華はBlu-rayを買い直して何十回も見て暮らしています。美しさに全く飽きません。

空気人形で彼が撮ったゆりかもめ周辺の景色は、肉眼で見ることができない光、朝日、午後、夕暮れの一番美しい光を切り取っていて、だけどその色はその後の自分の目に美しいフィルター機能を足してくれるような強さを持っています。景色だけでなく、人の表情の持つ多層さも、見つけることができる気がします。

 

※是枝監督は、あんなにも可愛く素敵なポスターを作っておきながら、公開時のインタビューで「人形と人間の恋なんて上手くいくわけがない」と答えていて、確かにそういう映画だったけれど、あのファンシーなポスターなのにそりゃないぜ!と当時思いました。映画はとても素晴らしかったけれども、あのビジュアルで…。今見ても素敵ですし、間違ってはいないビジュアルではあるのですが。

是枝監督の、「誰も知らない」「歩いても歩いても」「花よりもなほ」のビジュアルは葛西薫さんがアートディレクターをつとめています。葛西薫さんは私が世界で一番好きなデザイナーなので、そういう理由からも是枝監督の映画を見に行っていました。